以前からバイエル、ブルクミュラー、ツェルニーなどの練習曲は退屈だとか、効果があるのかとか、またそれらの代用となる楽しくて綺麗な曲はないのかなどを耳にすることがあります。
私はそれらの意見に関して、ある意味において理解に苦しむことがあるのです。
何も考えずに、ただ指を速く細かく運動させるだけの目的やその曲に対して何も感じないで、ただピアノの鍵盤をたたくだけの目的などの状態であれば、おそらく上記のような感想をもってしまうのだと私は思います。
確かに指などを俊敏に機能的に自由自在に操れるようにする目的で練習曲に取り組むことは必要です。
しかし、どんな曲も常にカンタービレに演奏することを心がけなくてはなりません。カンタービレに演奏するからこそ、ピアノ演奏が楽しく、技術の発達・発展がなされるのです。
カンタービレに演奏するためには1音1音の美しさを求めていくことが大切です。1音が全く淀みのない球体の水晶のようで、その中心に上質な金属音のようなものが鳴り、その中心がフィーロという線で結ばれているような状態に音があるのです。例えるなら、ルチアーノ・パバロッティ、ジャンニ・ライモンディ、フランコ・ボニゾッリ、フランコ・コレッリ、レナータ・スコットなどのイタリア人の名歌手の歌声のような、またその歌い方・表現方法です。
1音が本当に美しく、それがバランスよく連なることによって、カンタービレに演奏することが可能になるのです。なぜなら、1つでも淀みのある音があれば、それが原因で音楽が途切れているように聞こえるからです。例えば、話を語っていて、変な箇所にアクセントや抑揚などがあると、物語を語っているようには聞こえません。イタリア人の先生が1音だけで聴衆を満足させることが大切で、その美しい音たちが連なるから聴衆は高揚し、音楽に魅了させるのだと言っていたことを思い起こします。
また、それぞれの時代の練習曲や練習曲に相当するものを練習することも大切です。練習曲の時から自身の指や体などに歴史の旅をさせるのです。なぜなら、指や体などに鍵盤楽器の発達・発展の歴史と時代背景を自然と理解させながら成長させ、開発させていくことができるからです。例えば、ツェルニーの先生はベートーヴェンであり、弟子はリストです。つまり、ツェルニーの練習曲を演奏することで、ベートーヴェンが彼にどのような音楽教育を施したのか、彼がリストにどのようなピアノ演奏の教育・影響を与えたのかを感じることができます。そして、それぞれの作曲家の音楽の特徴やそれらの作曲家が求めていることを自然に表現できるようになるのです。
このように時代背景を踏まえた、作曲家のことを理解した、1音の美しさにこだわったカンタービレ奏法を自然にできるように、上記のような歴史に名を残し、長く愛用されている練習曲などに取り組むことで、また指導者がそれを可能にするためにレッスンをすると、退屈などのような意見は持ちにくくなると私は感じています。