私は常々、音楽作品が時代を超えて残っているのは奇跡であると考えています。なぜなら、その当時の判断基準で音楽的に優れているから、もしくはその当時流行しているからといって、その音楽作品が後年、演奏し続けられて残るわけでもありませんし、反対にその当時の判断基準で駄作でも演奏し続けられて、その音楽作品が半永久的に残ることもあるからです。
例えば、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルとヨハン・セバスティアン・バッハではその当時、ヘンデルは国際派音楽家・作曲家であり、彼の作品は音楽的価値があり、非常に人気を博していました。一方バッハはドイツの一地方の音楽家・作曲家で、彼の作品はドイツ語圏内でしか知られていませんでした。しかし、現在バッハの作品のほうがヘンデルの作品よりも有名で音楽的価値があるとされています。ヘンデルの作品は完全な形で残っているものがバッハより少なく、特にヘンデルのオペラ作品は非常に多くイタリア式の作風で作曲され、その当時は音楽的価値もあり、また人気を博したはずなのに完全な形で残っているものが少ししかありません。他にもジョアキーノ・ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」も当初はそんなに評判のいい作品ではありませんでした。同じ題材のジョヴァンニ・パイジェッロの「セヴィリアの理髪師」のほうが当時、人気があり、高評価を得ていました。しかし、現在パイジェッロの作品は忘れ去られ、ロッシーニの作品のほうが傑作として多くの聴衆に親しまれています。また、数々の名歌手によって歌い継がれています。例えば、アルマヴィーヴァというテノールの主役級の役は、チェザーレ・ヴァレッティ、ジュゼッペ・ディ・ステファーノ、ルイジ・アルヴァ、ウィリアム・マッテウッチなど著名なテノール歌手によって歌われています。つまり、このロッシーニの作品は演奏家がその価値を認め演奏し続け、そして聴衆もそれを認めたことによって作品として半永久的に残っているのです。
作曲家と演奏家と聴衆の関係が非常にバランスよく良い状態が保たれ続けるときに作品は残るのだと私は感じています。作曲家がどんなに素晴らしい作品と自認していても、演奏家がその価値を認めず演奏しなければ、その作品は世に出ていきません。また、作曲家と演奏家が作品を傑作と認めていても、聴衆がそれを認めなければ、その作品は後世に残るのは難しいでしょう。そして、聴衆は様々な形でそれらの音楽作品を知り、演奏を試みたりもするのです。つまり、作曲家と演奏家と聴衆のそれぞれが、自分たちの意見・権利を主張しすぎず、お互いの存在や価値などをきちんと認めたときに、作品が傑作とされ、世にいつまでも存在し続けることができるのです。
昨今、日本において音楽の「お」の字も知らないような人たちが音楽にかかわり、自分たちの意見・権利を主張をして、この見事なバランスを壊そうとしています。私は非常に悲しく思っています。もし音楽を本当に大切に思うのであれば、慎みのある振る舞いをしてほしいと感じています。