…続き…
例えば、イタリア文学を研究している人が他のイタリア文学研究者が翻訳のできない、もしくは、翻訳するのに本当に難しい本を翻訳した時にそれを誇らしげに言っているということです。私はそういう様子を見たり、また周りの研究者が称賛しているのを見ると非常に残念な気持ちになります。なぜなら、翻訳の仕事は翻訳家の仕事だからです。もちろんイタリアの文学作品の研究するときは、翻訳をするのことはあると思います。つまり、研究過程で称賛されて喜んでいるということです。周りの研究者が「あなたが今度、賞を受賞すべきだ」と発言をしているのも見ると、さらに気持ちが重くなるし、なんておかしなことだろうと感じます。我々音楽家でいえば、新しい作品を演奏するために譜読みをし、この譜読みの段階で称賛されているのと同じなのです。我々は譜読みではなく、演奏を披露して称賛されるのはとても嬉しいし、誇らしげに思います。また、翻訳家のほうが素晴らしい翻訳をすると思います。なぜならその道のプロだからです。
イタリア演劇の研究者やイタリア美術の研究者などは実際に演劇を演じたことがなかったり、美術活動(絵を描いたりなど)をしてなかったりと実践がなく、理論だけを語るのです。イタリア文学の研究者も1つも作品なんて書いたことがなかったりすることがあります。実践も実験もしていないということになります。私は、「言うは易く行うは難し」と言いたいですね。
それにイタリア語の研究者はもっと比較研究をするべきだと考えます。日本人よりのイタリア語スタイルを採用するのではなく、もっと言語学的なところから比較研究をするべきだと感じています。それはイタリア語専門の日本人とイタリア人とでは、使う表現がかなり違う時があるからです。確かに、日本語をイタリア語に変換したり、日本人の気持ちをイタリア語で伝えたりするのは、かなり難しいことです。それは、日本語とイタリア語の表現スタイル、理論などがかなり違うからです。ですから、もっと言語の根本から比較研究をし、さらにそれをイタリア語を学んでいる人たちに分かりやすく教授する必要があります。イタリア語の学習者が減ってきたと嘆くばかりではなく、自分たちの状況把握力の甘さを正し、その高慢な態度を改めることが必要なのです。
つまり、全体的に勉強不足であり、研究不足であり、傲慢であり、高慢であるということです。そして、自分たちの価値は自分たちの研究でもって示すべきであり、その態度で示すものではないのです。
私は、文系の研究者は「言うは行うより易し」ということを肝に銘じ、謙虚に研究にあたるべきだと考えています。そして、老若男女の研究者がこの可能性に満ちた研究分野を停滞・衰退させるのではなく、創意工夫をし、さらに発展させることを考え、遂行していくべきなのです。もうデスクプランはやめるべきなのです。