私は常々、若い人にはぜひ長期の外国への留学をしてもらいたいと思っています。それにはいくつかの理由があります。
その国に行けば、その国はその国の人たちのために存在しています。例えば、イタリアに行けば、イタリアという国はイタリア人のための国であり、イタリア人が暮らしやすいように作られているのです。日本人は別に存在しなくてもいいのです。つまり、このことが大前提にあるのです。そして、外国に行けば、自分が抗えない事で何か意見を言われたりすることもあります。その中で、その国・そこの国民に媚びることなく、相手の意見を尊重しつつ、自分の意見も相手にある程度受け入れてもらわなくてはなりません。
例えば、高圧的な態度・意見で相手に対して接するような職業があります。そういう仕事をしていると、もしその職場にしかいないで、またその職場の人しか知り合いがいないと「常に自分の意見・態度が絶対的に正しい」と傲慢かつ失敬な人物になってしまいます。また、多角的な視点で物事を考えようとせず、一方的方向でしか物事をみなくなるのです。自分の意見を言う時は、まず、自分がどれほど知識と教養があり、どれだけ高尚な経験があるのか、様々なことに興味を持ち探求し、常に勉強をしているかというところからスタートしなくてはなりません。また、それを伝えるための言語能力と所作などを身につけているのかも考えなくてはいけません。そして、自分の意見の矛盾点はないか、反対の立場の人たちはどのような意見で、その人たちに自分の意見は受け入れられるのかも考えなくてはなりません。そして、話している相手がちゃんとした意見を言って通じる相手なのか、もしくはちゃんとした意見を言っても通じない相手なのかを考えなくてはなりません。もし先に述べた高圧的な態度・意見で相手に対して接するような職業で、ちゃんとした意見も言っても通じないような相手と話すのであれば、これは「自分の意見が絶対的に正しい」という風に思い込んで対処するしかないのです。しかし、そのような場所にいつも身を投じていると物事の分別なく、それをちゃんとした意見を言って通じる相手にしてしまうのです。つまり、自分はどんな人物で、相手もどんな人物なのかの分析をしなくてはなりません。
おそらく、これは日本にいてもこの思慮深さはできると思った人はいるかもしれません。確かにいろいろな条件を自らに課していけば、思慮深さができる可能性はあります。しかし、日本にいれば日本の常識が通用し、暗黙の了解のもといろいろなことができてしまいます。
大事なのは、自分の生きてきた常識が安易に通用せず、自分という存在が無の状態から確認できるところに身を置くことなのです。そうすることで、自分がどれ程の人間かがわかり、おそらく「自分の意見・考えが絶対的に正しい」や「自分が一番偉い」などという傲慢で失敬な人物にはならないでしょう。そして、多面的な分析が可能になり、多角的な行動をしていくことができます。
長期外国留学とはそういう経験のできる貴重なものです。
未来ある若い人には、自分の培った常識がほとんど通用しないところで、貴重な体験をしてもらいたいなと望んでいます。